第88話    「ブリコ(ハタハタの卵)の季節」   平成17年12月11日  

今年もハタハタが獲れる季節がやってきた。庄内では毎年129日に大黒さんと云って抱卵した大きなハタハタを味噌田楽にし、豆尽くしの料理(納豆汁、塩を納豆に絡め細かく切ったねぎを絡めた物、黒豆ご飯か黒豆を炒って砂糖を絡めた物を一升枡に入れ神に捧げ、その後皆で食べる)を振舞う。その昔商家では、大福帳を神棚に上げて神様に良い年であった事を感謝し、その後家族全員で料理を食す。亡き母より、子供の頃から「豆で暮らす」と云って、大黒さんの日はわざわざ豆尽くしの料理を食べるのだと聞かされたものだ。

ブリコとはハタハタの卵の事を日本海側の庄内、秋田辺りで云う。子供の頃は、オヤツ代わりにそのブリコなるものを良く食ったものだ。学校から帰って来ると台所の戸棚の中の大きな器の中に沢山入っている。岩場に上がったものや網に掛かってきたものをきれいな水の中で何回も何回もかき回しきれいに洗って砂出しをする。ブリコの中に結構砂が入っている事があり、この作業をちゃんとやっておかないと噛んだ時に砂がじゃりじゃりとして食えたものではない。大きな鍋にだし汁を作り酒、醤油等を入れてよ〜く煮だす。翌日には煮汁が冷たいブリコの中に滲みて、噛むとプチプチと云う食感とだし汁とがなんとも云えないハーモニーを醸し出す。

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月の海が荒れ雷が鳴る大黒さんの頃になると決まってハタハタが産卵のために岸に接岸する。荒れた海はせっかく海草に生みつけられたブリコ()を岸に打ち付ける。砂浜に流されたブリコはとてもじゃないが、砂が入っていて食えたものではない。しかし岩場などに打ち上げられたものは、比較的に砂が入ってないから、よ〜く水洗いして砂出しをすれば食べられるのである。日が経った物は硬くなり、喰えた物ではない。子供の頃は小さな駄菓子屋で一個5円位で売られていた。学校の帰り道に買っては口に頬張りながらプチプチと云わせながら、帰った思い出が残っている。

昭和二十年代のオヤツなんて無い時代の冬のブリコは、当時の子供達にとっては何物にも代えがたい最高のオヤツであった。その当時冬のオヤツの定番と云えば干し芋を焙った物とか昆布を割いた物それにするめの焼いたもの位なものである。食料も満足に無かった時代の世代である。甘くて美味しいものなどは年に数回しか口には出来なかった。

ブリコを最後に食べたもの昭和44年の冬、酒田市宮野浦へ通ずる狭い道路の途中にある駄菓子屋さんに立ち寄って食したものである。その後35年一度もあの食感を味わった事が無い。昨年そのブリコを市内のアメ横で買ってきた。懐かしさが一杯で、早速家に帰って妻に煮て貰い、冷たくなるのを待ちきれず熱いまま食べて見た。その味と食感は昔の思い出の通りではあるものの、思ったより硬く顎の筋肉が痛くなる。そして若い時と違い歯も相当に傷んでいる事もあり、思いっきり噛む事が出来ない。

子供の頃はこんな硬いものを平気でプチプチ云わせながら、良く何個も食べたものだと思いながらやっとの思いでやっと2〜3個を食べた。柔らかくて美味しい食物しか食べていない今の子供たちだったら、こんな硬くて素朴な味のする物等は決して食べないだろう。戦後食物が格段に向上し、いまや飽食の時代となった。柔らかく美味しいものがいくらでも手に入り、そんな食事と思っている世代にこんなものが食えるのかなと思う。我々の世代は戦後の貧しい食生活の中で硬い物、食べてあごが痛くなる事ありのスルメ、昆布、ブリコ等をしばしばオヤツ代わりに食べ、自然とあごが鍛えられて来た。

物の本に寄れば、柔らかいものを食する時代となった為に物を咀嚼する筋肉が減退し、顔付そのもののも変わって来ていると云う。歴史で云えば、徳川の初代の将軍家康は如何にも田舎者の顔付きで身体はがっしりとしているのであるが、世代を超えて後の将軍になればなるほど京都のお公家さんのようなのっぺりとした顔立ちとなり、体形も華奢となっている。正に現代人はその様になって来ているのである。

そう云えばTVで見ていると特に女性の顔が皆似て来ていると感じることがある。咀嚼力が年々衰えてきた結果であろうか?食生活の向上で胴長短足の人が少なくなり、平均身長も伸びてすらりとした欧米化が進んでいる。グルメ番組を見ているとバカの一つ覚え「このXX柔らか〜い!」。「柔らかければ、そんなに美味いのか?硬い物でも美味しい物がいくらでもある。」と云いたくなる。いやはや、戦時中生まれはへそ曲りである。